巡礼では多くの人と出会いました。それぞれがしゃべる言葉は様々です。といっても、わたしはあれこれの言葉が話せるはずもなく、スペイン語はおろか、英語すらカタコトとなると、あたりまえに日本語をしゃべる日本人は、それだけで話しかけたくなる存在でした。
「リタイア3人組」と名づけたリタイア世代のおふたりとは、サンジャン・ピエ・デ・ポーから歩き始めた数日後にバラバラに知り合いました。中盤のレオンの街角では、何日かぶりにそれぞれとばったりと出くわしました。「カミーノ・マジック」という言葉があります。縁のある人とは、不思議と再会するものなのです。
30数日間、ほぼ同じ時間に同じ道を歩いていましたが、3人そろって同じアルベルゲに泊まったのはレオンの次のビジャダンゴス・デル・パラモの1泊だけです。ほどほどの距離感がいいのです。サンティアゴ・デ・コンポステーラでは一緒に到着の祝杯を揚げ、大西洋に突き当たったフィニステーラの「0キロ」のモホンの前で記念撮影しました。
びっくりするような出合いもありました。
アルベルゲでシエスタ(昼寝)ののんびりとした時間を過ごしていると、LINEにつながっているスマートフォンが鳴りました。小、中学校時代から友だちのTくんからでした。同じ時期にパリに旅することは聞いてました。
「オレ、やよいさんのパリ郊外のお城のような家に泊めてもらってるんだよ」
続いてそのやよいさん。
「わたしのこと覚えてる?」
ちょっと焦りました。実はあまり記憶がなかったのです。わたしが学んだ京都市内の中学校は、ベビーブーマー世代とあって1学年で11クラスもありました。3年間、同じ中学校に通っても、同じ教室で授業を受けたことはあったのでしょうか。
「サンジャック(サンティアゴ・デ・コンポステーラのフランス語読み)にも知り合いがいるから、困ったことがあったらいつでも連絡してきなさいよ」
これはうれしい言葉でした。もちろん、この巡礼にあたっては旅行傷害保険にも加入していました。それでも長い独りの徒歩旅です。何が起こるかわかりません。最大の安心保険になりました。
やよいさんは、大学を卒業してすぐに結婚。それ以来40数年、パリで暮らしているそうです。今ではすっかりパリのマダムです。
帰国後、やはり一時帰国したやよいさんに「おいしいワインをいっぱい持って帰ってきたから、飲みにいらっしゃい」と誘われました。あれこれと説明をきいても右から左に筒抜けでしたが、その味わいだけは記憶に残るようなワインの数々に、大きなフォアグラと、パリの味を堪能しました。こんな出会いもあったのです。
【2016/09/05】
【06:29】
ベロラードの古い町並みを抜けた。前夜からの続きでまだ騒いでいる一団と出くわした。
この日のステージは、サン・ジャン・デ・オルテガまでの25kmほど。
【07:44】
ビジャンビスティアなどの小さな村を通過した。
【08:22】
エスピノザ・デル・カミーノで朝食。この辺りではカフェ・コン・レチェはガラスのカップで出てくることも多かった。ボガティージョは、生ハム入りのオムレツがはさまっていた。
緑が多い気持ちのよい道を進んだ。この辺りは東京の大学生のふみさんと話しながら歩いた。
【09:01】
ビジャフランカ・モンテス・デ・オカでオレンジジュース休憩。いよいよ丘越えの登り道にさしかかった。
始めのうちは樹林の間を進んだ。12kmの間、店はおろか、水飲み場もなかった。
「ブエン・カミーノ」と追い越してゆく自転車もトラブルに見舞われていた。
【10:04】
標高1165mのペドラハ峠。フランコ独裁時代に戦死した人々のモニュメントが建っていた。
どういう意味があるのか、多くのひもが巻かれていた。
直射の下を歩く。「Love you」とハートを石で描いている。暑い中、ご苦労なことで。
ポールに張り付けられた板には、巡礼地の名前が書かれ、その方向を指していた。中には「USA」や「Canada」の文字も。
トーテムポールのような前で、わたしも記念撮影。
【11:53】
ようやくゴールのサン・ジャン・デ・オルテガの文字。
【12:40】
修道院とつながるアルベルゲに着いたが、まだ閉まっていた。
オープンともに入り、隅の下段のベッドを確保。緑色のシュラフを広げてわたしのベッドと明確にした。
シャワーの後は洗濯が日課。
巡礼者のために村を開いたサン・ファン・オルテガの像。
幾何学模様が美しかった。
午後の陽ざしに干上がる。
【18:34】
夕食はアルベルゲのコミュニティーディナー。ペンネとポークステーキの定食。ワインはないが、ソパ・デ・アホ(ニンニク・スープ)もついてわずか8.5€。贅沢はいえない。
ソパ・デ・アホは期待したが、古いパンが入っているだけで、ニンニクの旨みがあまり感じられない、ちょっと肩透かしの味だった。